田川に残る古代人の足跡

田川には、はるか遠い時代の出来事を語る、数々の伝承が豊かに残されています。それらの古伝は『古事記』や『日本書紀』の記述とも重なるとともに、現存する社寺の縁起や地名の由来ともなっており、往時の田川の姿を鮮やかに描き出すものです。

神武東征

『古事記』『日本書紀』には、神武天皇が東征の際、宇佐から行橋に上陸し岡湊(遠賀川河口)に至ったと記されています。田川の各地に点在する伝承の地をつなぐと、その行程をたどることができます。

景行天皇の熊襲征伐

『日本書紀』には、熊襲征伐を行ったとされる第十二代景行天皇の条に、豊の国の豪族の一人として「高羽の川上」を拠点とする麻あさ剥はぎが誅殺されたという記事がみえます。この「高羽」(『田川郡誌』の景行天皇記事では鷹羽)はのちに「田川」となり、「高羽の川」は彦山川を指していると考えられています。

神功皇后の新羅征伐

田川の地名にその名を残す第十四代仲哀天皇とともに九州に下向し、朝鮮半島に渡って新羅を討ったとされる神功皇后。創作上の人物という説が多い中、田川を含む北部九州には、『古事記』『日本書紀』の記述を裏付けるような伝承が数多く残されています。

『古事記』『日本書紀』について

ともに天武天皇の命で編纂された『古事記』は712年に、『日本書紀』は720年に完成した。『古事記』は稗田阿礼に誦習させた内容を太安万侶が編纂し、神話の時代から推古天皇までの皇室の系譜、伝承、歴史をまとめたもの。一方、舎人親王等が編纂した『日本書紀』は、神代から持統天皇に至る、国家が成立するまでの通史を軸としたもの。外国の目も意識した公式の歴史書としての色合いが強い。

おほきんさん墓地の中にたたずむ円墳状の地形。「おほきん」は大王(おほきみ)と解釈できる。一説には、河内王の墓ともいわれている。
鏡ヶ池神功皇后が鏡山で天神地祇に祈りを捧げたあと、その水鏡に自らの姿を映したといわれる。

邪馬台国と卑弥呼のゆくえ

赤村にたたずむ巨大な前方後円墳型地形
邪馬台国論争にいま、田川が名乗りをあげる。

土地の人たちの間で、以前から古墳ではないかと囁かれていた赤村の前方後円墳型地形。先年、グーグルアースの衛星写真により、この特徴的な地形の全貌が明らかになりました。

全長約450m、後円にあたる部分の直径が約150mという大規模なもので、周囲には濠の痕跡もみられます。

とくに後円の大きさは『魏志倭人伝』における卑弥呼の墓の記述とほぼ一致し、ここに卑弥呼が葬られている可能性が高まっています。

この発見は、長年の邪馬台国論争に終止符を打つことになるのでしょうか。

赤村の前方後円墳型地形

[注]私有地につき、立入り、撮影、ドローンの飛行は禁じられています

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